都知事の英語力を公衆の面前で添削した大学の先生は
いかがなものかと思う。

この先生に比べれば、三木谷さんの方が英語に関しては
対社員の姿勢に交感が持てる。
(私自身はこの社内英語化を支持しているわけではない。
距離を保って見ている。)

しかしこの公衆の面前で英語力を添削した大学の先生を、
やり玉にあげる人々には冷めた目を向けてしまう。

ここぞとばかりによくないと言うが、では自分の近くで
誰かがそういう目に遭っていたら、出来る範囲でもいい。
行動するか。意見を言うか?

見て見ぬふりをせずに?

そうしないのならば、同じ穴の貉だ。


大阪の体罰自殺問題もそう。

私も体罰には慎重でありたい。当然だ。
しかし抑止力としての体罰は容認する考えを持っている。

家庭で少数の子の面倒をみるのとは違い、
個性も環境も様々な未成年を、一度に複数面倒をみるのである。

方法論が違ってくるのは当然のことだ。