行き過ぎを懸念する。

例えばこういう場合。

公園に咲いている満開の花を、バットを振り回し散らし、
遊んでいる子供の集団があったとする。

眉を顰めながらも黙って通り過ぎるか、
それとも子ども達に近づき、やめるように言うか。

態度如何では強い口調も必要だろう。
1対1ならば根気よく諭すことは集団に比べれば難しくない。

しかし集団であれば、子どもは互いに牽制し合う。
友達の眼を意識して素直に謝らない場合もある。

人数を頼みに、注意する大人がどのようなタイプであるかを観察し、
勝てるかどうかを見極める。

この傾向がもしなければ、怖い男性の先生の言うことは聞くが、
優しそうな若い女性の先生だとなめてかかるなんてことは有り得ない。

先生によって態度を変えるのはよくあることだ。
大人だって相手を見て態度を変える人は少なくないだろう。

場合によっては強い口調で叱る必要も出てくる。
先生のキャラクターにも拠る。

一概に「体罰はよくないから」という正論のもとに、
行動を制限しない方がよい。
却って教育を妨げる。

強い口調で叱り、例えばこういう行動も教育だ。
バットを持ち、その子の首元に向かって振る。
もちろん当てない。

振ってみせ、
「今、あなたが花に対してしたことはこういうことだ」と言う。
「私は今、バットを当てなかった。それでも嫌だろう。
あなたは逃げることもできる。花は無抵抗だ。動くことができない。
その逃げることが出来ない花に対して、一方的に暴力を奮い、
長い時間をかけてようやく今、美しく咲いた花を散らしてしまった。
花は生きているんだよ?」

これは教育ではないのか。


しかし通りかかった誰かが血相変えて邪魔をし、
問題にし、先生が謝罪する。

こういう事例はもう発生しているのだと思うが、
ないことを祈る。

何事も行き過ぎはよくないように思う。
極端に走り過ぎないことは大事だ。