■
ドイツ語
1.母音はローマ字式に読む
2.子音と母音を繋いで、ローマ字式に読む
3.子音だけの時も、原則としてすべて読む
4.母音の長短は、直後の子音の数で決まる
子音がひとつだと伸ばす
子音がふたつだと伸ばさない
5.jと母音を組み合わせると、ヤ行になる
japan ヤーパン
6.sと母音を組み合わせると、濁った音になる
See ゼー
7.vと母音を組み合わせると、濁らない。フの音になる。
Volkswagen
8.wと母音を組み合わせると、ヴの音になる
Wagen ヴァーゲン
9.zと母音を組み合わせると、zがツの音になる
Mozart モーツァルト
10. 語末のer,rは母音化して、アーやアと発音する
Mutter ムッター
Vater ファーター
■
批判的に物事を見るというのは何と難しいことか。
人間関係に距離を持たせ、利害関係を極力排除し、
それでも言いづらくなることは出てくる。
年を重ねた分成長したいのだが、成長の持つ意味も、
自分が受けてきた評価の価値基準も、何もかもずれて来るのだ。
変化してくる。
当人にとっては「ずれる」という感覚。
これを変化と受けとめ、柔軟に対応するという基礎の基礎、
評価内容以前のところでエネルギーを取られる。無駄だ。
しかし自覚しないと滑っていく。或いは受け入れられずに泣くか怒るか。
だからエネルギーを使って、自分を納得させる。或いは理解に努める。無駄だ。
だが仕方ない。変化した時には変化をキャッチし、受けとめ、
価値基準が変わったか否かを見極めるために「観る」ことへの力配分を増やし、
変わったか否かを判断するまでの時間は、個々の案件により異なる。
素早い行動は時に必要だが、拙速な判断はいつだって必要ない。
■
「国内総生産(GDP=Gross Domestic Product)を、家計消費・企業支出・政府支出に分けて考えるのではなく、GDPを相対として捉え、経済部門ごとの投資寿命で考える。つまりソフトウェアは3〜5年、工場は35年、床屋は1カ月といったように。
この方式で分析すると、現在の経済的欠陥(これはここ数年、アメリカ経済において資金の流れが停滞してきたことを指す)は、寿命が20年以上の資本投資が減少していることにある。
ソフトウェアは最も寿命の短い資本投資かもしれない。これはうまくいっている。寿命の短いデバイスや機器も堅調を保っている。だが、寿命18〜19年の工業機械への投資は進んでいない。
アメリカの企業融資部門で資金の流れが生じているにもかかわらず、長期資本投資はうまくいっていない。」
アラン・グリーンスパンの最近の言論より
■
再び月餅を食べる。(月餅は大きいので一回では食べ切れない)
マナガツオを適当にグリルする。小ねぎを散らし、オリーブオイルを回しがけ、マッシュルームを切って玉ねぎを切って、てきとーにアルミホイルで包む。主食はジャガイモ。人格の一部がドイツ人なのだ。「abweichen!」
■
マイナスの書き込みをしていると人が寄って来なくて快適だ。
マイナスでも役に立つしね。
プラスの書き込みをすると不快なひとが寄ってくるから嫌なのw
最近は黙って離れる。
当人は魅力的でも不愉快なひとを引き連れているひとは、
残念ながら私にも影響するので…。
マイナス、プラスというのは方向性。
ポジティヴ&ネガティヴとはちょっと違う。
例えて言うなら学者はマイナス。役に立つけれどね。
イノベーション関連とも違う。プラスは人を変に惹きつける。
これは雑用を増やす。だから普段は切っておく。スイッチを切っておく。
ひとにもてるのは、もてたい人にもてるから良いのである。
もてたい人だけにもてるのが理想だ。
本当はもてたい人に向けて書きたいが、
そうすると関係ないひとが来る。ジレンマ。
あまり場の雰囲気を読まないのでこういう発言に繋がるのでしょう。
内容ではないのだ。プラスにして提出する。
そしてこの一連の書き込みは、プラスなのであるww
この辺の法則というのは、私内部のことなので他人にはなかなか伝わらない。
簡単に破られ、理解されても困る。理解されないところに価値はあるのだ。
これは別の場所に向けて書いたものだが、
ひとつの言葉に2つの異なる定義づけをしていることに
投稿した後で気づき、削除したために、訂正の上ここに載せる。
一部だけを載せるのは本意ではないので。
マイナスというのは単に方向性や作用の問題。
そう、作用の問題。作用と言っても相性であったり理解力によっても
簡単にその性格を変える。
放たれた文章そのものには、プラスの性格もマイナスの性格もない。
相手を見ながら書いている。
それが見知らぬひとにも読まれるだけだ。
自分が描き出す、心の中のそのひと(達)に向けて
語りかける言葉なのである。大多数には関係ないw
語りかけるのは自分自身であったり他者であったり。
他者に投影した自身であったり、その他者の目に映るであろう自分自身だったり。
それは本当に他者なのか? と言えば、厳密には違う。
おそらく違う。
けれど、それは別の人格を持った、絶対的な他者なのである。
私は、そのひとが他者であるが故に惹かれ、尊重するのだ。