(これは法律の話ではない)

何者という外側の実態にはたいした意味はない。それぞれの専門性は高く、一般人に理解するのは難しくなる一方なのかもしれないが、大抵の場合定期的に知識を入れていけば、大筋を間違うことはないだろう。

具体的な方法論を求めすぎる。そのくらい自分で考えろと言われても、無理だと思うのかすぐにマニュアルを求め、情報を公開し、その情報に殺到し、皆が同じメソッドを使う。おかしくないか?皆が同じメソッドを使うなら、何処で差別化するのだ?

具体的な方法論において、誰もが入手可能な領域に置いてある情報を鵜呑みにして、同じメソッドを使う愚行。

具体的方法論を扱う際の“溜め”がない。お仕着せの制服を自分でアレンジして着こなすような、自分なりのセンスが、誰かに真似され、トレンドになり、これに乗らなければイケてる感じがしないと誰もが走る。ここはそういう国だけれど、それじゃもうダメなんだよ、という時代なのではないのか?

オリジナリティの実態は、大抵は「誰かの真似」だ。アレンジだ。時代が違ったり場所が違ったりするところから引っ張って来て、そこにちょっとした創意工夫を加えてやってみるのだ。そうして出来上がったものを見て、「そのまま取り入れた」ならそれは、オリジナリティとは無縁だ。ただの「何処かで見たような誰かの真似」だ。

「制服を脱げ」「私服に着替えろ」と言ってるのではない。

私はちなみに、制服は「きっちり着こなすのが好き」である。その方が美しい場合が多々ある。着崩せば着崩すほど、つまり見えやすいところでオリジナリティを出せば出すほど、その者の背景が見える。恐ろしいことよ? 「着崩す」という概念は「着こなす」ことが出来て初めて可能。

まず「着こなす」ことを考えては?