たまにちゃんと調べて長い文章書いたり、仕事関連の知識を増やしたりすると、勿体ないから働こうかな?と思うけれど、働かなくても生きていけるので、モチベーションが上がらない。まあいいかな?って思ってwゲームとかしたり。遊んでいればいいので、すごくすごく幸せだ。

原稿料をもらった経験があると、勿体なくて無料でwebに文章を載せられない、抵抗があるとよく書かれているけれど、これ本当。抵抗がある。

自分の原稿料のイメージが昔のままで止まっていて、いろいろ何だかな〜と自分に対して思ったりする。

webの知識に欠ける。はてなダイアリーですら説明見ないと設定できないのだ。本を買って読むほどではないけれど。はてなアンテナとか、たぶんこう☆と勘を働かせたいけれど、基礎知識がないから働かないw 仕方ないので用意された説明見ながら順番に作業する。あまり楽しくない。勘が働かないと「やらされてる」感があったり、目の前真っ暗で手を引かれてる感じ。勘が働くとガイドを連れて自分が冒険する感じ。

そんなwebの知識に欠ける私に、労働市場でいくらの値がつくか。つかないよ。働かなくていいので働かないけれど、得意分野の知識を増やすとか、時代を知るとか、薄く広くいろいろ知るとか、これ以上の愉しみはないのでやってるけれど、やめると本当に労働市場に出ていけなくなる感覚。

専門知識や経験(ブランクがあるから市場的には価値は0)から独立っていうのはエンプロイーだった頃から持っていたイメージだけれど、自分の価値を自分で創造して人に認めてもらうのと、他人が作ったシステムに乗って他人に自分を評価されるのとは少し違うので、後者(労働市場)にエンプロイーとして今、参加して、いろいろ年齢とかマイナス条件(本人はそう思ってなくても市場はそう見る)を跳ね返して、やりたい仕事に就くところを想像する。一番ヘビーなコース。これこそが実力だと思う。


原稿料の発生は責任の所在の発生と、意識の上で結びついていた感じがする。

「書くということそれ自体で発生する原稿料と、その文章自体に価格はつかないけれど、人を惹きつけ呼び込み、利益につなげる文章。」


まあwebにせよ何にせよ、足りないところははっきり見えれば後は埋めるだけなのだ。抵抗繋がりで言うと、原稿料を払ってくれた人がいるって意識がある。専門知識を無料で利用しようと相談してくる人って後を絶たないけれど、クライアントは相談することにお金を払う。それが客。無料提供は客への裏切り。線引き。

この感覚とか線引きラインがいろいろ道具が変わったので、変わってくる。

手間やコストで言うと、出来栄えから言っても、原稿料が発生する文章と、私の100枚の中編小説では後者の方が手間がかかっているし、出来栄えも下手すると後者の方がいいのだが、こちらを無料で見せることには何ら抵抗がない。

「勿体ない」からいつの間にか話がずれたw

「勿体ない」意識単体は、もうロートル。外すべき。

いろいろ守られていた(それは時代に守られていた)部分をどんどん自分から裸にして、本当に実力のなさを思い知るべき。もう思い知っているけれどさらに、知るべき。そうしないとダメになるから。