http://blogs.yahoo.co.jp/aka59mahi/26964227.html

「私は遺伝性蓄膿症なので、鼻で呼吸ができません。口で息をして生きてきました。苦しいことです」と書き出しいます。高校2年生の夏、2度の手術を受けたこと。3度目の手術には失明する危険があり、「盲になってもよい」という同意書に署名・捺印できなかったこと。同年配でその手術を受け、遺伝性蓄膿症は治ったものの盲人の按摩さんさんとして生きた女性がいたこと。弟もまたこの病気を持っているので59歳の今も結婚していないこと。そうした身内の「宿命」を淡々と記した後、「世には運・不運があります。それは人間社会が始まった時からのことです。不運な人は、不運なりに生きていけばよいのです」とズバッと切り込んでいます。

 「私も弟も、自分の不運を嘆いたことは一度もありません。嘆くというのは、虫のいい考えです。考えが甘いのです。覚悟がないのです。この世の苦みを知ったところから真(まこと)の人生は始まるのです」「真の人生を知らずに生を終えてしまう人は、醜い人です。己の不運を知った人だけが、美しく生きています」「私は己の幸運の上にふんぞり返って生きている人を、たくさん知っています。そういう人を羨ましいと思ったことは一度もありません。己れの不運を知ることは、ありがたいことです」


鼻の病気は苦しい。

病気は人生に深い影を落とすと皆、思っている。嘘ではない。影のひとつやふたつ落ちるだろう。当然だ。しかしもっと正確に言うならば、深い影響を与える。「影を落とす」ではなく「深い影響を与える」だ。

プラスにするかマイナスにするかは自由だ。まだ決まってない。自由にはリスクがある。当たり前。

「己の幸運の上にふんぞり返って、あろうことか他者を罵りながら生きている」無様な人。いるね。そんな者は心を寄せてみても心を遣ってみても、返して来ない。気づかない。返して来ないのは予想通りだし、稚拙に返されても迷惑だ。返って来ないことを計算に入れて、相手がこの先生きていく上で、支えになるように言葉を渡す。