私は、twitterFaceBookも、このtumblrもそうだが、自分を第一の読者に想定している。自分の為の場所として設置する。他者の姿は遠く彼方にある背景の構成要素である。背景の構成要素は無論、私にとって大切なものだが、それはあくまでも背景の構成要素として存在するのである。

ここでは私と同じ大きさを持って他者は存在しない。キャッチボールのようなコミュニケーションはここには存在しない(させない)。



キャッチボールのようなコミュニケーション(会話)は、FBのひみつのグループで行う。限定された、当事者以外他者の目の無い場所だ。



キャッチボールを行う際は、私は他者を自分と同じ大きさのものとして認識する。他人は必ずしもそうではないということと、私が私のやり方を通すこととは別である。