『 しかしながら、
そのような生活に終止符を打って状況を改善させるためには、
単に給料を増やしたり労働時間を短くしたりするだけでは
十分とは言えません。
意外かもしれませんが、
物心がついたときから奴隷生活しか知らなかった人は、
そもそも自分自身で自由な生活を送ることを知らないので、
そのような自由を恐れたりします。
奴隷生活は確かに厳しいものですが、
主人の命令さえ聞いていれば自分自身で
自主的に決定する必要はありませんし、
最低限の生活は保証されます。
その一方で自由を獲得すると、そこから先は
自己責任で人生を切り開かなければなりません。
そういう意味では長時間労働に文句を言いながらも
大企業に勤め続ける日本のサラリーマンと
ブラジルの農場の低賃金労働者は、
似たような存在かもしれません。

さて、このような奴隷生活にピリオドを打ち、
自由の道を歩むためには何が必要なのでしょうか。
「神話的」(思い込み)、「疎外的」、「ニセの事実(への逃避)」、
「主観的」かつ「運命論的」な派閥化ではなく、
「批判的」、「解放的」、「取り組み(仏語ならアンガージュマン)」、
「客観的」および「自らの将来の創造者」となる急進化 』
( 以上、抜粋 )



一方でこうも思う。
奴隷であることを選択する権利。
奴隷ゆえの安息。

ひとりの人間は、いつも如何なる場所でも奴隷であり続けるのか?

また、リバタリア二ズム的観点から見れば、
奴隷的状態は好ましくないが、
奴隷であるその個人を否定する方向に動くと人権の侵害となる。

成長は強制されるものか?

こう考えると環境を整えることにまずは特化すべきと考えられる。

またマゾヒズム的嗜好が強い者に対する抑圧の回避。

奴隷状態のすべてが改善すべき状態なのではなく、
奴隷状態からの脱却を目指す際に、
分かり易く方法論が提示されているのが
望ましい。

マゾヒズム的傾向は悪ではなく、傾向であり、志向である。

文化的にもここから芽吹く作品が散見される。

フェミニズムにも共通する性質であるように思うが、例えば
女性解放の観点から経済的自由の確保を目指して
労働市場に飛び出しても、
慣習、制度の両面に於いて環境の整備が途上である場合は、
ひとりひとりの女性労働者は
今まで以上の苦難を強いられる場合が往々にして見受けられる。

また、労働が旧約聖書の世界では悪とされるように、
価値観というのは基本的に
時間と空間を制限された状態で共有される。

人々が労働の無い社会、
経済的にも精神的にも開放された世界を目指すならば、
現時点でそれを達成しているのは、
もっとも遅れている健康な成人被扶養者層
(平たく言えば子育てに時間を取られない専業主婦層等々)
であるというパラドックスが出現する。

そもそも男女差別は存在するのか、という問題提起も
可能は可能であって、
リバタリアニズム的に言えば、
究極の個人的関係である男女関係にまで
国家が介入すべきではない。
緩やかに道すじを示すとすれば、
「合意のないセックスは望ましくない」こと、
「合意のないセックスにより望まない妊娠をした場合は、
産まない自由と育てない自由(子捨て)が保障されること」
でじゅうぶんだと思う。

奴隷的自由にもそのまま流用してみるとどうなるかという思考実験。

国家は「子捨て」と「労働市場の確保」だけを保障し、
国家で育て、労働需要を創り出せばよい、と
着地点が何故かケインズっぽくなってどうしよう。

お金かかるけど、そのための税金ですし、
平気で子どもを捨てるようになれば、
国が親から取り上げて
都合のよい労働力に仕立て上げることが出来て、
簡単に被抑圧者層を創り出せる。
逆に国が育てることにより、自由思想を植えつけることもできる。

思考実験という名の遊び。