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仕事に触れる機会を他人が与えてくれていれば、と発想している時点で、
そもそも根幹の部分を間違ってるよなと思いました。


教育と市場は切り離すべきだと思いますね。

実学が大事」という感覚ならまだいいですが、
実学以外に価値はない」に近い考えが、広く社会に浸透していると思います。
もっと哲学や論理学、やればいいと思うし、
経済活動とは距離があるからこそ価値がある。

大学の持つ役割が、専門学校としてのそれに置き換わってきている。
教養学部大事にすればよかったのに。
例えば、大学にこもって教育学を勉強するより、
学校に出かけて行って子供に触れ合うべきだと主張されると強烈に違和感がある。
集中して教育学を学問として勉強することには価値があるだろうと思うのです。
その時間は、中途半端に現場に出ない方がいいかもしれないです。

仕事に触れる機会を創るのも、学んだことと仕事を結びつけるのも自分ですね。


一般論としては理論と実践を切り分けて、
理論に集中する必要があるとは思いますが、
教育学に限っては三流の学問なので、その必要はないでしょう。
なぜなら、もともと発達心理学社会学やそういうよそさまのディシプリン
密輸入している側面があるので。
それならば、フィールドスタディが有効だと思います。

仕事に触れる機会を創るというのは、たしかに出来ないわけではなくて、
経営学とまちづくり関係の学問はやった方がいいでしょう。
ただ中等教育段階でキャリア教育として全員が経験すべきものなのかは
議論の余地が残ります。まあ、中学校くらいでは社会見学をもう少し
ブラッシュアップして、やってもいいんじゃない?という気もします。
ただ、その場合に必要なのは、教員研修であり、それは今、
忙しい中学の先生たちにやってもらうのはすごく難しいです。


4年間をそれに費やすことが必要かどうか、というのは
検討すべきかもしれませんね。
修士課程に進んでさらに…という人も増えているかもしれません。
フィールドスタディの弊害もまた、ありそうじゃないですか? 
教育学そのものが与える弊害というものもありそうですが。
「教育学三流」に同意。笑ってしまったわ。確かに三流なんですよ。


うまい人がやればなんでも素晴らしく、
下手な人がやればなんでも弊害があります。
なので、どれを選んでも同じです。

もう一つ、大学は専門学校化している側面もたしかにあります。
それは僕らの世代、2000年前後の大学生はダブルスクールが流行っていて、
その傾向を受けた大学がそういうものを買い取って、
学校の中で講座として開催するようになったからです。
これは学生側の需要とそれに対する供給という市場原理で説明できます。
ただ、一番問題なのは、そこではなく、マージナル大学と言われる、
もはや教育機関というより福祉機関になっている大学が存在することです。
もはや何を学ぶかというより、どうやって生きて行けるかを
教えなきゃならないのです。そこに議論の余地はありません。
やれることをやるだけです。


私は、教育学ではなく社会学(それもフィールドワーク)の方で、
それはそれで面白かった。学生がうろうろすることは
それ以上でも以下でもなく、興味があったり現場を見たいから
うろうろしている。そのスタンスが一番自由でよい。


フィールドワークは教員が一緒にいてこれを教えようなんていう
感じじゃなくて、実際に自分たちが経験してみて、
その後さりげない雑談の中で、教員が自分の経験を話したりして、
学生も自分たちの経験を前提に教員の経験談追体験するなんてことが
あれば、十分じゃないかと思います。


「うまい人がやればなんでも素晴らしく、下手な人がやればなんでも
弊害があります。なので、どれを選んでも同じです。」
そう言ってしまえばそれで終わりなんだけど、教育学については
うまく機能していないのではないか(必要ないという意味ではないです)
と思う。もっと現実に起きていることに対応する必要があるというのか…。
素晴らしい教育学の薫陶を受けた者ほど絶句してしまうという現実が
あるような気がして仕方ない。
それは、現実に対応していくという点で、弱い。

あ、なんかずれてきたかも。もう一度読みます。
教育学そのものに対する思いと、フィールドワークをどう組み込むか、
大学の現状(マージナル大学化)。


素晴らしい教育学って、教育学以外の人からの評価であるんですかね。
教育学の人の評価とその外の人の評価って違う気がします。
もともと素晴らしい教育学なんてなくて、
きれいごとだけ言っているという印象です。


「教育学以外の人」って私を指しますか?


あ、他の分野の学者です。

というつもりで書いたけど、教育村に馴染めない人はみんなじゃないですかね。


ああ、私馴染めなかったんですよ。
教育学の人の評価とその外の人の評価って違う気がする、は同意です。
そこはそのギャップを認識した方がいいのではないかとも思います。

「教育学」=「きれいごと」はそうだと思いますが、
ではきれいごとは必要ないでしょうか。きれいごとは必要だと思います。
ただし…と考えます。何だか教育学に特化してきましたね(笑)


美しいことは必要だけど、きれいごとはいりませんよ。


私は大学から遠く離れているので、マージナル大学化については、
話題になるから少しは知っているつもりなのですが、
実感としては分からない。それは大学がしなくてはいけないことなのか…? 
現場にいる人が待ったなしで、議論の余地なく、教えなくては…と
考える現実があるのですね。
それをもう少し、どういうことなのか
(実感としては難しいかもしれませんが)知りたいですね。


分かりやすく言ってしまうと、フレイレの『被抑圧者の教育学』、
これは重要です。でも、その礼賛研究は一切、不要です。
フレイレだけ読めばいい。僕の好みでもありますが。
ただし、緻密な文献交渉によるフレイレの思想研究は意味があります。

大学というか、一番、大きく言うと社会が人をどう育てていくかという
教育という枠があって、さらにその中で学校教育はどういう役割が
あるのか、初等・中等・高等教育の役割分担はいかにあるべきか、
みたいな根本のところから考え直さないといけないんですね。
ただ、それはすごく難しい。


「美しいことは必要だけど、きれいごとはいりませんよ。」
ああ、こちらはフィールドワークに近いスタンスで書きましたから。
つまり教育の現場に置いて「きれいごと」は必要だ。
「きれいごと」は全力で教えなければならない。
その内容を「きれいごと」にしてしまっている社会を変える
原動力となるように…と言ってしまえばちょっと危険な感じもしますが、
まあ究極はそういうことなんだろうと。
無論行き過ぎないように、が大事です。教育は、大事。
「きれいごと」というのは**さんが使った言葉をそのまま使っただけなので
「美しいこと」と言い換えることには何の問題もありません。

そうすると私の方が、「教育学」というものに現場を寄せて、というのか
フィールドワーク込みで考えるスタンスを取っているのかもしれないですね。
(良い悪いではないです。)大学から遠いですしね。
出かけるのでここまでにしますね。どうもありがとうございました。
コンサートに行ったり美味しいものを食べたりしてきます。


はい、私もちょうど出発です。こちらこそありがとうございました。