某社の入社式の如何にもリア充な女の子たちの写真を見ながら…。

成人式もそうだが、これが入社式?!と驚くほど幼い。私たちも年配の人達からはそう思われていたに違いないが。

にっこり笑う彼女たち(女性向けアパレルの販売職なので女性社員ばかりである)。
それを見て嘲笑するような意見が並ぶSNSに対抗するような気分で書き始めた。


半分以上演技なのよね、彼女たち。修羅の世界ですよ。抜け出すには知性の力を借りるしかない。

女性のリア充って往々にしてこういうことになりがち。他人との向き合い方の問題。実践は大事だから外に出ていくのはいい。自分で方向をコントロールする。真のリア充とは(笑)誰にも邪魔されずに地味〜な活動に勤しめることよ。出て行く場所を考える。人が集まらなくなればその場所は淘汰される。

或いは人が集まらなくなれば、その場所は性格を変える。

今はそこにしか居場所がないなら、そのことを肯定して夢を描く。次に行きたい場所をはっきりと心に描く。でも修羅の世界が居心地がいいという人、大勢いるのでしょうね。そこに最適化すると、傷すら甘くなる。傷やつらさや、淋しさや、そういうものがアイデンティティを司る一部になってしまう。

自分が今在る世界を、正確に把握する(正確に? 客観的に。客観的=不特定多数と同意見を持つ)というのは、難しい。意識していないとずれる。

しかも他人というのは個々で意見が異なるだけではなく、生育環境により重層的だ。層の厚い部分を形成している意見がどういうものかを把握するということ。

この点にエネルギーが注がれる。そこを重点的に意識させられながら育つ。空気を読むスキルってそういうことだ。そのわりに、その能力は局所的・閉鎖的な空間でしか発揮されていない。勿体ない。柔軟性はこの能力がないと発揮できないから、その気になれば日本人は得意ではないかと思うのだが。

集団に流されることにこの能力を使ってばかりはいけない。把握して次に自分を確立する。把握がゴールではない。集団に流されない、自分が今在る場所を正確に把握するのに必要なのは、精神の安定。空気に支配されることによる精神の安定は、フレキシブルな対応は得意だが…。

善悪ではなく、ましてや上下でもなく、特性を把握してそれを活かす。例えば猪子さんが言うのはそういうことだと思う。ちょっと話がずれちゃったけどまあいいわ(笑)

客観的=マジョリティと同意見? というのは、現時点ではまあそうだと思うのよ。その物差しで動いているから。ガラパゴスはそれで動かしていた。真の客観的な意見はマジョリティとは異なる場合も出て来る。大衆は概ね正しい判断を下すが、常にそうとは限らない。

その時にマジョリティをも見下ろす鳥瞰の目というのは、どうしても現実世界に埋もれていては身に付かず、書物なり回想がもたらす邂逅(過去と未来を結びつける作業)なりで、獲得するものだと思うのだ。その作業に必要なのはやはり独りになる時間なので…ね〜